「…、これで最後」

本棚に教科書を仕舞い、軽く体を伸ばす。数時間かけての作業には流石に疲労を感じる。壁掛けの時計を見やればもう昼だ。ぐるりと室内を見渡すと何だか不思議な感覚がする。慣れ親しんだ部屋とは様相の違う場所…自分は今日から此処で暮らすのかと一人思考に沈む。早いもので明後日からは大学に通い始めるのだ。受験シーズン中に姉に応援されていた日々が昨日のことのように感じるのに。

「あ、」

机上に置いた箱に視線を留め、そういえば隣への挨拶をしなければと箱を片手に靴を履きに行く。自身の住まいとなるマンションの部屋は左のちょうど突き当たりのため、お隣は右部屋の人のみとなる。どんな人なんだろうかと考えつつ、どうせ言ってもこのご時世だ…儀礼的な挨拶一つでもう関わることもあるまい。少なくとも迷惑さえ掛けられなければ構わない。扉横のインターホンに指を添え、そんな自分の冷めた考えに苦笑する。箱を抱え直していると、奥から何かが崩れるような酷い音が聞こえた。知らず知らずの内に眉間に皺が寄ってしまう。訝しむ自分を余所に、扉がゆっくりと開かれ慌てて表情を戻した。

「……誰だ?」

そこから現れた人物に一瞬息が詰まる。陽光と蜂蜜を溶かしたような美しくも甘い、金糸の髪に透くような真っ直ぐな琥珀の瞳。目を奪われるという言葉の意味をこの時初めて知った。首を傾げる相手に合わせて流れる金糸を追い掛けながらも手に持っていた箱を差し出す。詰めていた息をゆっくりそうとは気付かれないように吐き出してから唇を開いた。

「初めまして、今日隣に越してきました練白龍と申します」

つまらないものですがとマニュアルに則った言葉を紡ぐと相手も張っていた緊張の糸を切ったようだ。丁寧にどうもと頭を下げ、箱を受け取った彼はフッと笑った。

「わざわざありがとうございます…えーっと練さん?」
「はい」

頷くも貴方の方が年上でしょうしと喋り方も呼び名もお好きにと言えば、それじゃあと途端に砕けた空気を纏わせた。

「俺はアリババ、アリババ・サルージャ」

よろしくと握手を求められたのでそれに応じる。彼の手に触れた瞬間まず驚いたのはその冷たさだった。彼の温かみのある印象とは正反対の温度にギクリとする。強張りを無理矢理解くが、もしかしたら気付かれたかもしれない。

「なあ、ところでさ」

そうした俺の思考を置いて、彼はもう昼ご飯は食べたのかと問うてきた。首を横に振るとじゃあせっかくだしと誘いを掛けられる。別段断る理由も無いが、何だか拭い去れないモヤのようなものが奥底でとぐろを巻く。だがそれが何かを認識する前に無意識に自分は頷いていた。





「ちょっと散らかってるけど…」

だがそんな飲み込めない感情など一気に霧散してしまった。というのも招かれた彼の部屋…凄まじいの一言しかない惨状で。そう正に惨状だ。

「…ここだけ一過性の台風でも通ったんですか」
「お、うまいこと言うな」
「ッ、冗談ではなくこれは無いでしょう!」

ちょっと散らかってる?ふざけるなこれのどこがちょっとだ。散らかってるなどと生温い…イライラと荒ぶる心のままに言葉を発すると、唖然とした彼の表情とぶつかった。

(あ、)

しまったと思うも後の祭り。年上の、しかも会ったばかりの人物に対してあまりにもな態度をとってしまった。どうしようと青くなる顔を俯けた瞬間、弾けるような笑い声が部屋に響いた。

「ふ、はは!お前…それが素なのか?」
「いえあのこれは」
「良いって別に」

俺もこれは散らかり過ぎだと思うし。
困ったように頭を掻く彼は、近々提出するためのレポートに追われているらしい。参考資料探しに四苦八苦して本棚をひっくり返していたらこうなったという。なる程確かによく見れば大小はあるが壁には幾つかの本棚が並び、ここには多くの書籍が置けそうだ。これを全てひっくり返したのなら、こうなるのも頷ける。下に視線を向ければ筆記用具も散らばっているし、ルーズリーフには何やら難しい用語が連ねられていた。

「俺今年で四年になるからさ、ギリギリ出来るかどうかのラインでレポート課題が出るんだよ」
「…大変なんですね。すみません、何も知らずに」
「だから良いって。ま、お前もその内分かるさ」

ゆるやかに流れた言葉と彼の微笑。それがどこか悲しげに見えたのは目の錯覚だったのだろうか。

「なあ練、お前のこと名前で呼んでも良いか?」
「え、は、はい」
「ありがと。じゃあ…白龍」

お前も俺のこと名前で呼んでくれて良いから。改めてよろしく。
隣としても後輩としてもと言われて目を開閉させる。

「あの、」
「ん?だってこの辺で大学っていったら一つしか無ぇし」

告げられた大学名は確かに俺が通う所で。彼もそこの学生であり、自身の先輩となる人…何だか可笑しな感じだ。

「とりあえず腹減ったし飯食いながら話そうぜ」

楽しそうにテーブルまで誘う彼の後について行き、何故かその後俺がご飯を作ることになるのだが、それについてはまたいずれ…。




***


そうしてアリババくんのご飯係になる白龍くん。